又鬼資料 3点 (熊槍・カンジキ・雪ベラ) |
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市指定有形民俗文化財 指定日 昭和49年3月19日 所在地 十和田大湯字白沢 所有者 個人 |
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熊槍は、獣を突くため又鬼が用いた狩猟用具で、投げ槍のようにしても用いられたという。又鬼言葉でタテといった。
又鬼が猟具以外に雪山で欠かすことのできない道具として、カンジキや雪ベラがある。
カンジキは、雪山の必需品で、主にニギョウ(サルナシ)を材料として自家製作し、牛皮の締具によって足に取り付けた。カンジキの爪は、堅雪のころは短く、雪の深いときは長くした。熊の狩猟のころは四ツ沓(四本爪)のついたカンジキを履いた。
雪ベラは、イタヤ材などを柾目に割って自家製作した。雪ベラは雪除けや雪洞つくりに用いられたほか、狩猟の時上端に銃身をのせ安定させて撃つことができるように窪みをつけた。雪が深い時は長い雪ベラを、浅いときは短いものを用いた。
※ 又鬼(マタギ)
米代川の支流、大湯川の上流や熊沢川の上流域では、雪の降る冬季、クマ・アオジシ(カモシカ)・バンドリ(ムササビ)・ウサギ・ヤマドリなどの狩猟のため山に入り、それ以外の季節には山菜・茸を採り、生計を維持する又鬼といわれる人々がいた。
又 鬼 用 具 1点
(アマブタ) |
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市指定有形民俗文化財 指定日 昭和52年2月4日 所在地 十和田大湯字白山 所有者 個人 |
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又鬼が狩猟する時は、又鬼頭を中心に又鬼組をつくった。大湯又鬼は7人組であったという。
猟山の生活では山詞(又鬼が使う忌み言葉)を使用したほか、いろいろな作法や忌みがあった。服装は麻の雪バカマ、木綿のモモヒキなど比較的薄着であった。
アマブタは、又鬼衣装の一つで、狩猟の時の編み笠である。冬季間に寒気や風雪を防ぐために用いられた又鬼帽子で、雪山に欠かせない携行用具であった。天気の良い日には二つ折りにして背負った。
このアマブタの材料はミゴやマダ(シナノキ)皮で、内側には布、海藻が用いられ、江戸時代末期の頃のものといわれている。
又 鬼 用 具 3点 (熊槍・玉造り器) |
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市指定有形民俗文化財 指定日 昭和52年2月4日 所在地 十和田大湯字二倉 所有者 個人 |
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狩猟にあたって、銃が普及してからも常に猟具として携行されたものに熊槍(タテ)がある。熊槍の穂先には片刃の厚い包丁のような山刀刃と三角刃とがあり、普段は熊などの毛皮で作った鞘をかぶせておき、中子に紐を巻いて携帯した。使うときは柄を近くにある木でつくり、穂先を紐で結び付けたという。熊を脅す金具のついたものもあった。火縄銃のころは一発しか撃てないので、弾丸がはずれたときは、この熊槍で立ち向かい、突き刺した。
狩猟具としての鉄砲は、明治中頃まではもっぱら火縄銃が使用されていた。この玉造り器は火縄銃の玉(弾丸)用として、鉛を流し込んでつくる玉の鋳型である。獲物に命中した玉は抜いて貯えておき、これを新しい鉛と混ぜて次の玉とすると、必ず命中するといわれていたという。
又 鬼 用 具 5点 (火縄銃1点、鉛玉3点、煙硝入れ1点) |
| 火縄銃
煙硝入れと鉛玉 |
市指定有形民俗文化財 指定日 昭和52年2月4日 (平成12年6月30日火縄銃と鉛玉を追加指定) 所在地 十和田大湯字中岱 所有者 個人 |
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大湯地区の白沢、大楽前、折戸などの集落は又鬼集落であったと伝えられている。
この火縄銃は、昭和56年に折戸にある旧宅の解体中に発見されたもので、江戸時代末期のものといわれる。
煙硝や玉は、それぞれに秘法によって自家製作したといわれる。煙硝は銃の大きさや狙う獲物によってその量を加減したといわれるが、その製法を今に伝えるものはない。
この煙硝入れは金具のついた木製漆塗、玉入れは猪の皮製である。
これらの資料は、又鬼の狩猟方法を直接的に知ることができる貴重なものである。
(火縄銃1点 全長142.0cm、銃身長105.5cm、口径1.3cm・鉛玉3点 径1.3cm)
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市指定有形民俗文化財 指定日 昭和49年3月19日 所在地 八幡平字石鳥谷 所有者 個人 |
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この火事装束は、小田島家3代目小田島徳兵衛が着用したもので、江戸時代後期のものといわれ、羽織、胸当、火の粉除け垂れ、兜からなる。なお、羽織、胸当、垂れは厚手の羅紗地、ビロードで、同色である。
羽織は、乗馬する関係から背割羽織で、背の中心に家紋をつけるほか、金糸による精巧な波と兎の刺繍が施されている。胸当の中央には家紋のほか葡萄の刺繍、垂れには4ヶ所に家紋、金糸、銀糸による竜の刺繍がある。
兜は、和紙を漆で固めて作られており、頂点から線を流しその間に小さな突起でアクセントをつけ、前立てには真鍮の家紋をつけ、火の粉除けの垂れをつけている。
葦名神社の絵馬 133点(付棟札5点) |
|  安政4年に奉納された「千匹馬」 |
市指定有形民俗文化財 指定日 昭和49年3月19日 所在地 十和田山根字堂ノ上34 所有者 葦名神社 |
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馬産の盛んな頃、葦名神社(芦名沢観音堂)には、馬の安産や安全を祈願、奉謝した絵馬が数多く奉納された。
奉納された絵馬には、馬のほか、牛、武者絵などがあり、164cm×200cmの大絵馬から25cm×35cmの小絵馬まで133点にものぼり、これほどの量が一堂にあるのは県内でも稀である。
絵師については、田中北嶺などの著名な画家も腕をふるっているが、ほとんどが名もない絵馬師や素人の手によるもので、稚拙な作が多いが、それだけにひたむきな信仰心があらわれている。
一番古い絵馬は、元禄8年(1695)に長沢新之丞によって奉納されたもので、煤のため判然としないが金箔入りの目、細やかな鬣、靡く尾、力の入った脚など躍動感あふれる馬が墨で描かれている。また、安政4年(1857)の群馬の絵馬には華麗な千匹馬が描かれ、詣り馬ともいわれている。
元禄6年(1693)、延享3年(1746)、寛政11年(1799)、文化4年(1807)、天保13年(1842)の棟札があり、拝殿再建などの日時を明らかにしている。
細布織機 (付 細布1巻き、細布印2コ) |
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市指定有形民俗文化財 指定日 昭和52年2月4日 所在地 十和田錦木字古川 所有者 個人 |
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文政4年(1821)の『御領分産物書上帳』毛馬内通の項に「狭布細布 古川村」とある。古川の里で織り出される細布は、錦木塚とも深い縁をもつといわれ、鹿角の名産として幕府巡見使の鹿角通行の際には献上されるのを通例としていた。
この細布は幅6寸(約18.2cm)、長さは2丈6尺(約7.88m)が一巻といわれ、その名の通り普通の麻布より幅が狭かった。菅江真澄は天明8年(1788)「けふのせばのの」の中に「現在は鳥の毛を混ぜて織ることはまったくしていない。家の内外を清めて注連をはり、織る女も湯を浴び、精進潔斎する」と記している。
百人一首献額 20枚 |
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市指定有形民俗文化財 指定日 昭和52年2月4日指定 所在地 十和田毛馬内字毛馬 内沢32 所有者 月山神社 |
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月山神社拝殿の鴨居の上にめぐらされた小倉百人一首の献額は、安政3年(1856)に奉納された。この献額は、横6尺1寸5分(約1.86m)、縦3尺1寸(約0.94m)の焼き杉板を5つの枡割にして、天智天皇から順徳院まで百人の歌人とその和歌を描き、20枚で構成されている。
達者に書かれた絵は薄墨で丹念に細線が施され、胡粉や赤、青などの顔料で彩色されている。人物を描いたのは、献額者名に二度登場する伊勢屋与之助と思われる。
「所願成就皆令満足」と所願成就を願った献額者は104名で、その名は裏面に記載されている。それによると、ときの毛馬内通代官山本林左衛門、池田衛士をはじめ、毛馬内の武士、町人、村役の名前がみられる。ほかに小坂村、細越村、濁川村などの肝煎の名もあり、月山神社が江戸時代には毛馬内通の総鎮守として尊崇されていたことをあらわしている。
栗山家 「古代かづの紫根染・茜染資料」
染物39点、道具37点 |
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市指定有形民俗文化財 指定日 平成6年4月1日 所在地 花輪字堰向 所有者 個人 |
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紫紺染・茜染は、鹿角の山野に自生する紫根・茜根の染め草を石臼で搗き、染料を抽出する古代染色技法を伝えていた。下染をしてニシコオリ(サワフタギ)の木灰汁で100回以上染めてから約1年間布地を枯らし、その後本染に入り、染液に10回位繰り返して染める純粋な草木染である。布地は羽二重、木綿などが用いられ、代表的な模様には手絞による大枡、小枡、立枠、花輪絞があり、濃い紫と茜の色調の中に白い絞りが染め残された模様は優雅さを醸し出している。
これらの染物は、栗山文次郎、文一郎父子による貴重な作品であり、用具は父子2代にわたって使用されたもので、鹿角における唯一のものである。
文次郎は昭和19年に技術保存資格者に認定され、28年にはその技法が全国唯一のものとして国から無形文化財(記録作成者)に認定された。父亡きあと文一郎がその技法を受け継ぎ、技術保持者として53年に県無形文化財に指定され、平成3年に没するまで古来の技法を守り伝えた。
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